かけ算序列話の続き・・・あるいは小学生向けガリレオ裁判

このへんとか

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。 5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

このへんとか

「掛け算は非可換」論者は日本版の「創造説」論者である - 吾輩は馬鹿である 「掛け算は非可換」論者は日本版の「創造説」論者である - 吾輩は馬鹿である

読んでてふと思ったんで雑記。
これって異なる”正しさ”のぶつかり合いなんだよなあ。

  1. 「算数」的に見れば、かけ算には順序がある。何故ならかけ算とはそういうモノだからであると指導上定義しているから。言うなれば先生を頂点とする教室社会の中で"社会的に"正しい。
  2. 「数学」的に見れば、(スカラ量の)かけ算には順序なんて無い。言うなれば社会とは関係なく"数学的に"正しい。

まず、「算数」的な、ある程度型にはめる考え方を全否定してしまうのは危険で、否定してしまうと初等教育の段階で一握りの天才以外の大多数が落ちこぼれるだろう。九九の暗記とか、かなや漢字の書き取りとか、型にはめて”そういうモノだ”として教えないとにっちもさっちも行かない部分ってのはある訳で。(かなや漢字のような文字体系を一から構築できる人間を育てる教育ってのも見物してみたい気はするが、そういう教育を受けるのは御免だ)
まあ、国語の場合は問題は少ない。小学校の頃に習う文字と社会に出てから使う文字が違うなんてことは無いし。旧植民地国家等で、初等教育では現地語を教えるが高等教育は旧宗主国語で教えるって例はありそうだし、そこでは同様の問題が起きているかもしれないが、取り敢えず無視。

問題は数学の場合、小学校の教室の中での"社会的な正しさ"と、"数学的な正しさ"との間にズレが存在する。で、生徒によってはかなり早い段階で"数学的な正しさ"を自力で発見してしまう訳だ。(まあ、知らずに小学校を卒業するケースも多いだろうし、そもそもそういう議論をできるレベルまで到達できないことだって普通にあるだろうけど)
この"社会的な正しさ"と"数学的な正しさ"がテストの採点って舞台で衝突してしまったのが今回の件の発端かと。
で、この件について"序列なし"派に被害者意識を持つ人が多いのは、自分で発見した"数学的な正しさ"が教室の中での"社会的な正しさ"に問答無用でねじ伏せられてしまったと感じている人が多いからではないだろうか。あるいは"数学的な正しさ"に気づいていても空気を読んで敢えて自分の正しさを主張しなかったという鬱屈を引きずってるとか。

図式としてはガリレオ裁判なんだよな。
社会的な正しさ(天動説)と学術的な正しさ(地動説)がぶつかり合って、結局社会的な正しさが学術的な正しさをねじ伏せてしまうって点で。
もちろん小学生に「それでも地球は動く」とかロックなことを言える訳はなく("社会的な正しさ"とは別に"学術的な正しさ"が存在し、両者が必ずしも一致する訳ではないと理解していなければこういう発言は出来ない)、鬱屈とか被害者意識だけが残ると。それにしても、このへんをねじ伏せること無く説明できる小学校教師ってどれぐらい居るんだろうか。

まあ、ここまでであればまだ話は簡単な気がするけど。問題は中学以上に進学して「算数」から「数学」へ移行したときに、かけ算の順序という小学校の教室の中での"社会的な正しさ"が吹っ飛んでしまうこと。しかもあんまり説明なく。
小ガリレオからからすると「あの時の俺の屈辱は何だったの?」となって増々鬱屈が強まり、"社会的な正しさ"を墨守してた真面目な生徒からすると「今まで正しかった考え方が無意味に成るってどういう事?」となって躓く。まあ、そこまで不器用ではない層や、そこまで理解できてない層も結構厚そうだけど。

とか思ったんだけど実際問題としてどうなんだろうか。