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趣味系ミリタリと萌えの結合に対する居心地の悪さについて考えをまとめてみた

自分でも拒否感を持つことに疑問だったので、この機会にまとめてみる。
ただし、これから書くことはあくまで自分が「萌え」と「戦史系ミリタリ」が結合されたコンテンツを見た時に感じる事をまとめてみただけであって

「本当のミリヲタならこう考えるべきなのだ!」

という主張ではないので。念の為。
いやほんとに、同人誌『戦争は艦娘の顔をしていない』(参照: 同人誌『戦争は艦娘の顔をしていない』販売前後 - Togetterまとめ )の関係各位とミリヲタ度を比較したら自分なんか『戦闘力…たったの5か…ゴミめ』レベルですわ。偉そうなこと言えるほどミリタリ趣味を極めて無い。

あと、「萌え+戦史系ミリタリ」の組み合わせは『MC☆あくしず』あたりから始まったと認識してるんですが、この組み合わせによりミリタリ趣味への新規参入者は増えるし、結果としてミリタリ業界にお金は回るし、ミリタリ趣味へのdnbk感もだいぶ減少したと思うし、理屈では全然OKなんですよ。ただやっぱり感情としてどうしても拒否感があるので、その拒否感についてセルフ解剖してみようと。

あと、元Tweetにあるように、どうもこういうことに拒否感を覚えるミリヲタは少ないらしいので、少数報告としてWebに上げとくべきかなと。

こういうまとめを書きたいと思った理由は以上。

拒否感を感じるボーダーラインについて

よく考えると萌え属性キャラクタそのものを鑑賞して楽しむ的なことはあんまりしてないので、自分はあんまり萌との親和性は無いのかもしれない。ただ、自分の知りたい情報や面白そうな物語が、萌え属性キャラクタにより描かれていたとしても「萌え属性キャラだから」という理由だけで拒否感を覚えたりはしない・・・少なくともミリタリ系以外のコンテンツについては。

しかし、よく考えたら「大砲とスタンプ」とかはあんまり拒否感を覚えないな。

大砲とスタンプ(1) (モーニングKC)

大砲とスタンプ(1) (モーニングKC)

マルチナさんは官僚主義かわいいのでお勧め・・・とそれはともかくとして、「大砲とスタンプ」は割りとガチ寄りなミリタリフィクションなんだけれど、拒否感はあんまり無い。拒否感を覚えない理由としては、どうも史実から離れた架空世界(正確には歴史改変世界)を舞台にしているため、リアルな戦争が描かれていたとしてもあんまり拒否感を感じないんじゃないかという気がする。つまり、自分が拒否感を覚えているのは「萌え+ミリタリ」というよりも、現実の歴史や戦史、兵器等をベースとした「萌え+戦史系ミリタリ」ということか。
戦場のヴァルキュリア」や「ガンパレード・マーチ」に拒否感を感じないのもまあ同じように仮想世界をベースにした作品だからかなあ。

しかしよく考えると、例えば「ストライクウィッチーズ」「ガールズ&パンツァー」「艦隊これくしょん」といった架空世界を舞台とした作品でも拒否感は有る。ただ、これらの作品は架空世界を舞台としていると言っても、その物語やキャラクタの造形が現実の歴史や戦史、兵器と深く関連付けられているために拒否感を感じるのかなという気がする。

と、ここまで考えてさらに気付いたんだけど、ミニミ軽機関銃やAT-4やMG42を振り回す暁美ほむら嬢(「魔法少女まどか☆マギカ」)にはあまり拒否感を感じないんだなコレがまた。ということは、拒否感を感じるかどうかは作品を気に入ってるかどうかっていだけの話なんじゃないのか?という疑惑が出てきた。だが待って欲しい。例えば「艦これ」の場合には艦娘のモデルとなった艦艇の戦歴や特徴と艦娘のキャラクタは不可分であるけれど、暁美ほむらが振るう近現代火器っていうのは、別にミニミやAT-4である必然性は無くて、「火力・物理力で運命に抗おうとする」悲壮さを描くための手段であり、近現代火器であれば何でも良いはずなのだ(もちろん、現代日本での入手可能生を考えると選択肢は限られるけど)。ホマンドーの得物は、物語の象徴としての存在であって、例えばミニミやAT-4の特性やら採用に至る経緯やらというのは物語に一切関与しない。つまり、形としては実在の火器を使用しているとはいえ、現実との距離は結構遠い・・・と考えると色々スッキリした。


ということでやはり、自分が拒否感を覚えているのは「萌え+ミリタリ」というよりも、現実の歴史や戦史、兵器等と深く結びついた「萌え+戦史系ミリタリ」であると考えて良いと思う。

ミリタリコンテンツに対する自分の立ち位置を確認してみる

ミリタリ系の趣味を持つようになったのは確か中学生頃(90年台前半)。小林源文先生の「黒騎士物語」や「カンプグルッペzbv」あたりがきっかけだった気がする。あとは学校の図書館にあった戦史ノンフィクションとか、タミヤのプラモとか。そんで、当時のミリタリって結構白眼視される趣味だった(特に学校だとね)。あと、自分の出身県って被爆県で、平和教育ってけっこうガッチリやってたのよ。まあ祈ってるだけで平和は来ないし、当時冷戦中だったんで米国の核の傘の下で反核運動やる意味ってどうよとも思ってたし、教師側に色々色々色々色々色々色々色々問題は有った・・・有ったんだけれど、それはそれとして当時存命されていた被爆者の方から、この世の地獄としか形容できないような体験談を生で聞くことが出来たというのは、貴重な体験であったと思う。
さてそこで、当時厨房ミリヲタだった自分に二律背反が生じる。

兵器はカッコイイし戦史は面白い。しかし戦争の影には被害者が居て、地獄を見てるのだ。


「えー兵器カッコイイとか言っちゃう男の人って・・・」と感じる人も居るかもしれない。でも、そういう人は大岡昇平とかティム・オブライエンとかの作品読んでみなよ。

レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)

レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

戦場は悲惨なところだし、踏みにじられる人達も居る。でも一方で、どうしようもなくかっこ良くて面白い、魅力的なモノっていう側面も有るし、前線で苦しんだ人もそういう側面を描いているんだコレがまた。

ただ、「趣味として」戦史系ミリタリを語る場合には(もちろん悲惨さは十分抑えた上ではあるにせよ)、どうしても魅力の面に焦点が当りがち。しかし魅力だけを語ろうとしても、悲惨さから逃げる事になってしまう。そしてこの辺の矛盾を深く深く発酵せていくと末期症状として↓あたりに行き着く。

宮崎駿の雑想ノート

宮崎駿の雑想ノート

改めて、「萌え」+「戦史系ミリタリ」に対する拒否感について

もっと言うと、趣味としてのミリタリっていうのは、何というか当時の人達が戦場に賭けた思いや、苦難や、苦悩や、悲惨さを「コンテンツとして消費する(楽しむ)」ことだと思うんですよね。とても胸を張って威張れる趣味じゃない。特に第二次大戦以降の場合には当事者がまだまだ存命されてる場合が多いですし。しかし、どうしようもなく魅力的でもある。

自分は、そういう消費の仕方をする自分自身を下衆なモノだと認識してるし、下衆だと認識した上でミリタリを趣味として消費したい。なんというか、ミリタリ趣味における「原罪」的な捉え方。

ただ、そこに萌え要素が付いてしまうと「趣味として消費」という側面が非常に強くなってしまうというか、戦史を「趣味として消費」する自分の下衆さに対して言い訳する余地が無くなってしまうというか・・・というところから拒否感が発生してるんじゃないかなという結論。

と、「萌え」+「戦史系ミリタリ」に対するモヤモヤとした拒否感について可能な限り言語化してみたけれど、改めて読みなおしてみるとまだまだ言語化されてない部分が多い気がする。
とは言え、今の自分にとってはここまでで精一杯な感じなので、取り敢えずいったん自分語り終了。