押井守「ケルベロス 鋼鉄の猟犬」感想

1942年、"独裁者"が暗殺され生まれ変わったドイツは、凍てつくソ連の地で泥沼の戦いを続けていた。黒髪の女性将校マキ・シュタウフェンベルクは、甲冑を身に纏った装甲猟兵「ケルベロス」を記録映画に収めるため、最激戦区のスターリングラードへ旅立つ。孤立無援の最前線で奮闘する兵士たちの宿命を目にしたマキの胸に去来するものとは――。

押井守の小説作品は初読。アニメ監督としても「機動警察パトレイバー」関連程度しか知らないため、他にもあるらしい「ケルベロス」関連作品とは切り離して、この小説単品での感想を書きます。

で、感想ですが・・・・・。先ず気になるのが、膨大な量のペダンチックな描写。ペダンチックな描写やウンチクを積み上げて仮想歴史を語るっていう手法は仮想戦記でよく有る手法で、この辺の描写が絶妙に上手かった(過去形)佐藤大輔を思い起こさせます。ただ、佐藤大輔作品では歴史改変プロセスにもウンチクを積み上げ、歴史改変に説得力を持たせていたのですが、「ケルベロス」では兵器や戦術についての膨大なウンチクの影で、歴史改変の内容と結果については割りとあっさり流されています。例えばドイツは対ポーランド戦と対仏電撃戦に勝利しているようですが、対英・対米戦争は行われていない様子(英本土上陸作戦に成功した結果として対連合国戦争は終結したのか、他の原因で停戦となったのかは明確に書かれていないような。p260で四発重爆を作って何処を爆撃するのだ?というような描写があり、英本土を爆撃するような必要が無くなっていることは確か。ああでも「大西洋の防壁」は有るんだよなあ)。まあこの辺は、作者の関心が箱庭的な歴史改変世界の完成度を高める方とは別の方向に向いているという事でしょう(ただ、最後にレニングラードで発生した"ある出来事"が如何にして可能になったのかという説明は積み上げておくべきだったと思うけど)。

で、主題である装甲猟兵「ケルベロス」の虚像に対する憎愛について。
何というか、ミリヲタ界隈でよく見られるドイツ戦車の無敵伝説に対する憎愛というテーマと根は同じなのかなあという印象。同じくアニメ監督として有名な宮崎駿は筋金入りの戦車マニアであり、ドイツ戦車無敵伝説を、戦車整備兵「ハンス」を描いた一連の漫画作品や「泥まみれの虎」等で、「妄想」として叩ききっていることでも有名です。文章としては梅本 弘「ベルリン1945―ラスト・ブリッツ」の後書きとして、その愛?憎の思いの丈が綴られています(後書きタイトルが「妄想戦車戦論 戦争という”お化け”の正体に迫るということ」、各パラグラフのタイトルが「戦車が強いなんて妄想です」「哀れな乗り物・戦車」「ドイツ軍の妄想・ソ連軍のリアリズム」「スタジオジブリ、ドイツ軍化計画?」と抑えが効いてない暴走ぶり。宮崎駿ジブリ映画でしか知らない人に是非感想を聞いてみたい濃い内容です)。

ベルリン1945―ラスト・ブリッツ (歴史群像新書)

ベルリン1945―ラスト・ブリッツ (歴史群像新書)

ただなあ・・・"ドイツ重戦車"の場合、ミリヲタ界隈だけにせよまだ無敵伝説という幻影が共有されているものの、"装甲猟兵「ケルベロス」"についてはこの作品単体では、読者にその幻影を共有させることが出来ず、正直なところ、否定されても愛を語られても、あまり衝撃もエモーションも無いというか・・・。映像作品であれば、プロパガンダフィルムに残る"ケルベロス"行軍シーンだけで観客の脳髄へ幻影を埋め込むということも可能だったと思います。ただし、この小説単体では読者の感情に訴えかけて幻想を埋め込むという仕込みの部分が決定的に不足しており、結果として「近代戦で鎧なんか役にたたない」と言われてもああそうですかとしか言い様が無くなる訳で。一方で、映像作品として作った場合にはそれはそれでペダンチックな描写に自ずと制限がかかる訳で。

おそらく、他の映像作品を含む他の関連作品とセットで読まないと魅力が伝わらないということかと。この小説単独では、かなり中途半端な印象を受けます。あと、ペダンチックな描写といい、舞台設定といい、かなり読者を選ぶというかミリヲタ以外立入禁止的なノリなので注意。