蹂躙される側から見た電撃戦 - サン=テグジュペリ「戦う操縦士」

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)

内容紹介

1940年5月のフランス。アルデンヌ森を突破したドイツ軍機甲部隊は、驚異的な速度で連合軍主力の後方を遮断。あまりの展開の速さに連合軍の指揮系統はほとんど麻痺状態となり、6月末にはフランスはドイツに降伏することとなった。(いわゆる「西方電撃戦」)
偵察飛行集団33-2飛行大隊に所属するサン=テグジュペリは、絶望的な戦況の中、ドイツ占領下にあるアラスへ単機偵察飛行に飛び立つ・・・

この作品、文学的価値や「事実と違うじゃねえか」的なツッコミはとりあえず脇に置くとして、「蹂躙される側から見た電撃戦」の体験談としては第一級です。
印象的だった部分をいくつか引用してみると

私たちは情報(偵察結果)を伝達することは出来ないだろうから。
道路は渋滞しているはずだし、電話は故障しているはずだ。司令部も緊急退避してしまっているはずだ。敵の位置についての重要な情報を与えてくれるのは、敵自身ということになるだろう

「機甲師団は水のように行動すべし。敵の障壁に対して軽い圧迫を加え、抵抗に遭遇しない限り前進すべし。」そんなふうに、戦車は障壁に対して圧力を加える。間隙はかならず存在する。彼等は必ず突破するわけだ。
ところで、それら戦車の進撃は、それを阻止する戦車がないために、いとも簡単におこなわれ、見かけは表層的な破壊(地区指令部の拿捕、電話線の切断、村落の焼き討ちなど)しかおこなわないにもかかわらず、じつは取り返しのつかない結果を引き起こすのである。彼等は、有機体そのものではなく、神経やリンパ節を破壊する化学物質とおなじ役割を果たしたのだ。彼等が電撃的に掃蕩した地域では、全ての軍隊は、たとえほとんど無傷のように思われても、軍隊としての性質を失ってしまった。孤立した集塊と化してしまったのだ。

道路は避難民で溢れ、連合軍は前線へ進出することすらおぼつかない。それよりも目の前で困っている一般市民を救うことが優先され、行軍するだけで戦力を失っていく。テグジュペリ自身が所属する部隊も、数日ごとに後方へ移動しなければならない。

地域コミュニティは崩壊し、流言蜚語が飛び交い、兵士は次々に無許可離脱する。既に「戦争」は終わり、「社会の崩壊」が始まっているのだ。
(テグジュペリの表現を借りると <<狂った夏、故障した夏>>)

そのような状況の中、生還が絶望的な単機偵察(しかも、成功したところで司令部に情報が伝わることもないし、伝わったところでそれに対応するための戦力も無い)へ出撃する訳です。そして、偵察飛行の極限状態の中で「戦う理由」を見つけ出していく・・・・この辺は流石フランス人としか言いようの無い描写でして、感動すると同時にちょと哲学的過ぎやしないかと("思索だけではなく実際の行為を行え!"って主張なのに・・・)思ったりしましたが。

あと、上の電撃戦についての描写もですが、このようなテーマや情景であっても詩的な香りのする文章を書けるというのはやはり凄い。

手を出しやすい文庫版の方も復刊してくれないかなあ。

「事実」と「物語的な真実」との間

訳者あとがきで触れられているように、この作品で述べられている偵察飛行作戦は、実際の作戦とはかなり異なり、また十分な護衛戦闘機が付いた状態で実行されています。とはいっても、偵察飛行集団33-2飛行大隊は、三週間の作戦で23組の搭乗員のうち17組を喪失してほぼ壊滅しており、絶望的な状態で飛行を繰り返したことは間違いないようです。

この辺は実際に起こった事実を忠実に描写すべきか、それとも体験を消化した上でエッセンスを抽出し、物語的な真実を語るべきかということでしょう。テグジュペリや、過去に紹介したT・オブライエンは明らかに「物語的な真実」を重視していますが、戦場での事実を忠実に描写することで文学的に評価を受けた作品としては大岡昇平「レイテ戦記」か。
いずれにせよ、方向性の問題であって「事実と違う」ということは作品の価値とはあんまり関係無いと思われ。